李 昇達|M1|20200428|研究発表+討議
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複雑系における表現方法についての研究
社会の極、自然の極から見た秩序の解釈
①問い
・複雑系をどのように表現するか。
→17世紀のフランス庭園 受動的 
日本庭園 自発的に動く身体 
キュビズムと虚の透明性
ドローイングから研究 荒川修作
②複雑系における形態論
・複雑系においてどのように秩序(形態)をつくるか。
篠原一男、磯崎新ら
〈on session〉
青井先生
・どんなに整った環境をつくったとしても、そこに起こることは、複雑である、ということ、それを古典力学・透視図法、みたいな形におしこむのか、それともそこに起こっていることを複雑なままに捉えるのか。
視点の複数化、ということは、世界中の非透視図法的な絵ではいくらでもある。一般的。
光
・カオスな建築とは
フランス庭園→王様によって秩序化がはかられている
日本庭園→色々な秩序 複雑を許容しながら観者は虚の全体性が描かれる。
木山
・なぜ全てドローイングか
→日本庭園をどう表現するか、フランス庭園だとドローイングで可能
・荒川修作はなぜ
→見る人の頭の中を可視化する 複雑なモノの可視化
自分のイメージに近い、、
根葉
・荒川修作は経験を与える作品が多いので、荒川修作の作品は3Dの庭園のようなものであると思うので、彼の作品を見た上で描かれる作品というものが(存在するかはわかりませんが)、屏風やキュビズム絵画に分類されるのではないか、と感じました。
滝口
・日本庭園は継起的な経験の積み重ねを通してしか、「体験」「観賞」され得ないということですね。
石井
・日本庭園のようなものだと、シークエンスみたいなものが絡んでいるように感じます。
水原
・卒業設計では複雑系をデザイン・生成のプロセスを捉えることについて考えていた印象ですが、現在の興味は複雑な物事を見る際の視点・見えてくるものを表現したいということですか
大野
・表現・製作者がどのように見せたいのかによる所もあると思います。その複雑系を一般の人に向けてどのように表現するかなどの、思想や意図が反映されている気もします。
〈after session〉
青井からのコメント
ちょっとどうでもいいこと書きます。
透視図法って、非常に単純化された原理に、世界(の見え)を厳密にしたがわせること、ですよね。ところが、一点透視や二点透視では、垂直方向の遠近は無視しますよね。あれは、世界をより単純化しているのか、それとも反対なのか。
目をひとつの点とし、それを固定するならば、ビルの上の方は小さくなっていく。下も小さくなっていく。ところがそうはならない。そんな目はありうるの? 唯一の合理的な説明は、目が一本の垂直線になっている、ということだろうか? ビヨーンって垂直に伸びた目。たぶんエレベーターみたいな目なので上下に動き、おかげでビルの幅は変わらない。いやいや、待てよ、そうだとしたら左右の消失点が決まらないじゃないか。はっ!(目の高さはやっぱり決まっていなければならない、すると上はすぼまる・・ああ・・・)
というわけで、あの図法は数学的に明白な矛盾であることが証明できる。そう僕は確信しています(学生の頃に気づいてドヤ顔をしていた 笑)。
3点透視はどうか。GLに目をくっつけてビルを見上げる、屋上より高いところからビルを見下ろす、このときはまあ良さそうな感じです。しかし、ビルのまんなかあたりに目を置くと、ビルは目より上の四角錐と下の四角錐がくっついた宝石みたいな形になる。この表象は、現実のビルと一貫性を持ちえません。目の高さのところに、カクっとした不連続点がある、ということになってしまうから。
つまり3点透視も矛盾を抱える。
結局、見方を単純化させようとすると、その見方は自身の一貫性を失い、矛盾(多元的なものの同居、複雑さ)を抱え込む。
雑談でした。
李 @青井先生
ありがとうございます!
複雑な世界を完全に捉えることは不可能。
つまり、どんなに表現をしてもどこかに矛盾が生じてしまう、ということですね。
雑談にも繋がる話として、水原の時にも話が出てきましたが、その複雑な(水原だと混在した?)世界をどういう枠組みで捉えるか、が重要になってくるという話は、痛いほどわかっていますが、その枠組みに責任を持つことにいつも自信がないです。(ここが自分の1番の弱点だと分かっています、、笑)
一応補足的に今回の発表は自分の中では、「経験」や「観賞」を通して得られた虚の世界はどのように表現・ドローイング可能かという枠組みで捉えていこうとしたつもりです。
あと最後に紹介して頂いた本の名前教えて頂いてもよろしいですか?画面が小さくて見えなかったです。
石原
最近、ソフィー・ウダール+港千尋「小さなリズム 人類学者による「隈研吾」論」 を読みました。
ソフィー・ウダールはラトゥールの弟子にあたる人類学者です。隈事務所にひっ付いて、事務所の所員、バイト、クライアント、事務所の中にあるモノ、模型素材までを観察し、それらと隈の作品の関係を民俗誌学的に書かれている興味深い本でした。
そのあとがきで、隈研吾が次のように書いています。
「「建築は少しも固定されてはいないじゃない」と(ラトゥールは)さらっと言ってのけて、先輩たちの硬直したロジックを一笑した。(中略)われわれはユーグリット空間の中に住んでないのにもかかわらず、建築をユーグリット空間の存在だと考えるから、建築が固定されていると錯覚するのだと、ラトゥールは説く。彼は建築を根本から再定義し、僕らの生きている空間自体を再定義してみせたのである。」
この後、隈さんも記していますが、ラトゥールはじゃあそんな空間に我々は存在しているの?ということに対して答えをくれていません。
ただ、たしかにソフィーさんが試みたように、建築の設計プロセスの中で様々なアクターが作用し、それら連関のネットワーク上に作品があるという理論は、建築が動的であると言えうるかもしれません。。
青井先生 @李
https://medium.com/vestigial-tails-tales-akihito-aois-notes/fukushima-atlas-on-arch-c4baa46167cc
本家のサイトに行けば、買うこともできます。amazonでは取り扱いがありません。
MediumMedium
Fukushima Atlas on ARCH+
ドイツの雑誌《Arch+》の238号(2020年3月刊)特集「建築の民族誌」に福島アトラスを紹介する記事を寄稿しました。
中西勇登
〈「テクスト」の読者は無為な主体に比べられよう。適当に空虚なこの主体が、ワジの流れる谷間の中腹を散歩する。彼が知覚するのは、互いに異質でちぐはぐな実質や平面に由来する、多様で還元不可能なものである。光、色、草木、暑さ、大気、わきあがる小さな物音、かすかな鳥の鳴き声、谷間の向こう岸の子供たちの声、すぐ近くや非常に遠くを通りすぎる住民たちの往来、身振り、衣服。これらの偶発的なものは、どれも半ばしか同定できない。それらは既知のコードから来ているのだが、しかしその結合関係は唯一であって、これが散歩を差異にもとづいてつくりあげ、差異として繰り返さないようにするのだ。〉(「作品からテクストへ」より)
ロラン・バルト『物語の構造分析』花輪光訳
ロラン・バルトという哲学者の引用です。
彼の専門はテクスト(書かれたもの)で、絵画では無いのですがこの文章などもしかすると参考になるのでは無いかなと思いました。
僕も最近触れたばかりなので、まだ理解ができていない部分も多いのですが、現実に起こる知覚(散歩)は環境や体験者が自身の記憶も含めた複雑系の中で選び取り紐付けをし、その都度体験化される一回性のものであるとのことを言っているのだと思われます。
(上記の文章、バルトはテクストを読むを散歩ことに置き換えて、テクストを読むことの体験の一回性を唱えています。)
いまいち要点が伝えられないのですが、複雑系の体験を表したドローイングというのはこうした自他を含めた無数のネットワークの中からその都度表れる一回性の繋がりの中で描かれる一回一度きりのものであるとも言えるのでは無いかなと思いました。
伝わりづらく、ドローイングという観点からすると元も子もない話ですが体験の捉え方として何か参考になれば幸いです、、、。
青井先生 @李 経験としての「虚の世界」はいかに表現可能か ―。
基本的に、対象そのものを直接的に描くことはできないんじゃない? たとえばさっきネタにしたんだけど、透視図法って対象と絵の間に「何も介在させない」という信念にもとづいて編み出された方法ですよね。けれど、それは人間がつくった形式である。必ずしも単純化(要素を減らす)ではなく、発明された人為的な形式なんです。しかも、それ自体が形式的な一貫性をもちえない、ということをさっき書きました。
そういう意味であらゆる表象は、ちょんうぇいが言う「虚の世界」を描いたものです。
ズレた?
李
前の返信で送った表現・ドローイング可能かは間違いで、その表現・ドローイングはどのようになされるかを研究したいということでした。複雑なものを複雑なままに捉えるのは不可能で、それを捉える形式(表現)はどのようになるか。その中でも建築や都市、庭園などの経験(これも曖昧ですね、、)を表現したとき、どのように表現されるかが気になってます。ただ、それは無数にあると思うので、対象を絞る必要があると思っています。
李
@中西勇登 挙げてくれた文章はとても興味深いです。全てを捉えるのは還元不可能で、体験するものはネットワークの中のほんの一部で、しかもそれは偶然性を孕んでいて、それを描くのはどうなのかとも思いました。複雑系の世界を体験したあともしドローイングを描いたとき、描かれる表現は多様で研究が難しいのかもしれないということですよね。やはりもう少し複雑系の捉え方を考えるべきなのかもしれないと思いました。